1- 乱れる壁
レネー三角地
ベルリンの都市部に位置するポツダム広場、そのすぐ隣に「レネー三角地」という場所がある。縮尺1/80の平面図(図1)は、真ん中より右側に1988年、左側に2022年の三角地を描いている。《壁》が崩壊したのは1989年11月のことだから、右側はその前年ということになる。その年、ここレネー三角地では大規模なデモが起こった。緑豊かなレネー三角地に開発の話が持ち上がったのだ。ある人はプラカードを掲げ、またある人はテントやバラック小屋を構え、開発への抗議をおこなった。
そのまま視点を左側の2022年にスライドする。そこには近代的なビルの切断面と舗装された道路がある。民衆のエネルギーが渦巻いていたかつての緑地もやがては資本の波に呑みこまれ、高級ホテルや一流企業のオフィスがひしめく一大商業区域になったのである。
「壁が東西を分断した」と聞くとき、「境界線に沿って機械的に」という無意識の解釈を重ねてはいないだろうか。《壁》と境界線の軌跡をなぞるようにして追っていくとそれらの線はずれながら、小さく揺れながら走っていることに気がつく。それはベルリン全体からみるとほんの微細な振動だろう。しかし同時に人間が棲まう容れ物、環境のかたちを変形させる大きなうねりでもある。ここでは都市開発が自然を破壊した、と感傷に浸るのではない。《壁》によって有り様を書き換えられつづけたとある三角地、その風景を今から描いていく。
二枚の壁、その空間
1988年のレネー三角地をもう少し引いた目線で眺めたい。縮尺を1/2000に切り替える(図2)。中央に浮かぶ三角形の区画がレネー三角地だ。しかし真っ先に目に入るのは、配置図を堂々と縦断する赤い巨大な帯だろう。
これが《壁》だ。1988年にもなると、逃亡を妨げるために進化を繰り返してきた《壁》に、いちおうの到達点を見ることができる。図面で赤く記した部分はまるまる物理的な壁を表しているのではない。コンクリートの壁が両端に設けられ、あいだは見通しのいい射撃区域となっている。そこに監視塔、ハリネズミ型の対車両用障害物、接触感知センサー付きのフェンスなどトラップがいくつも仕掛けられた。逃走者は一枚目の壁を乗り越えることができたとしても、二枚目の壁まで無傷でたどり着くことはできないだろう。《壁》は二枚、あるいは層状になることで余白の空間を獲得し、ますますその殺人能力を高めていった。
乱れる
では、空間を抱えた《壁》はどのようにベルリンを走っていたのだろうか。建設の主体から考えてみよう。
建設行為の主体は東ドイツ政府だ。とすると西ベルリンに《壁》が建てられることはない。築壁は東の領地で進められる。つまり厳密にいえば、《壁》のラインは東西境界線の「上に」ぴったり一致しているのではなく、境界線に「沿って」走っているはずだ。
ところが、《壁》はただ従順に境界線に沿っていたわけでもない。《壁》の円い軌道を一歩一歩たどる★1と、その乱れをいくつか拾い上げることができる(図3)。
《壁》が東西境界線から明らかに逸脱していることがわかる。つまり東ドイツは《壁》の向こう側にそれだけ領地を明け渡しており、かつ《壁》という障害物を領地に引き受けているということだ。そんな不利益をなぜ許してしまったのだろうか。いや、そうせざるをえなかったのかもしれない。
たとえば、川や湖の上に引かれた境界線に沿って、築壁をすることは難しい。《壁》は境界線よりも東側の陸地にセットバックして、または橋のある場所まで迂回して建設されている(図4)。
また、取り囲まれた西ベルリンと外界とをつなぐ数少ない出入り口、つまり検問所や駅では《壁》はさらにおかしな挙動を示す(図5)。
検問所では通行者の身元確認・記録が行われ、それに付随する施設が設置された。壁と壁のあいだに施設がつくられるとなると、《壁》は東側へと大きく膨れあがる。大規模な検問所が設置されなかった道路や鉄道では、《壁》は細く伸び上がり、道に追従する。他にも、類型e-10ではかなり複雑に《壁》が配置されているが、それは西ベルリンの飛び地という特殊な条件からだろう★2。
上空の目線から少し地上に近づくと、《壁》は正しく境界線に沿っていないことが見えてくる。築壁は地図の上に積み木をならべていくような単純な仕事ではない。東ドイツ政府は国民が外側へと漏れ出ないよう地形や機能にそのつど応答し、《壁》の細部にひどく丁寧な処置を施した。その場当たり的な行為は図として見ればとても滑稽だろう。しかし地面のうえに立ち、一人の人間として見つめるとき、それは周辺の環境を巻き込みながらこちらに迫りくる災害のようなものではないか。
無法地帯レネー
さて、レネー三角地でも《壁》は乱れていた。ここでは境界線がつくる凹凸を無視してまっすぐに建設が行われ、東ベルリンの一部が西ベルリンにはみ出してしまった(図7)。《壁》の西側に位置しているが、東ベルリンに属する三角地ができあがったのである。
東ドイツの領地に手を出す権利を西ベルリンは持たない。したがって取り残された三角地は、周辺から隔離され、無法地帯となった。人が容易に手を出せない陸の孤島。そこは植物たちにとって格好の生育地だ。しだいに木々が生い茂り、ビオトープが形成された。なんと百六十一種類もの植物が生息していたという。
これはレネー三角地に限った話ではない。東ベルリンにとっての死の壁は、皮肉にも西側に豊かな緑地帯をつくりだしていた。時が経つにつれ、《壁》の存在が西側の人々の生活に馴染んでいくと、そこはキャンプ好き、ランナー、鳥類学者、ヌーディストにとってかっこうの場所となった。
しかし八〇年代に入ると境界線を整理する試み、レネー三角地を含む飛び地に関する売買・交換の交渉がすすむ。このとき、西ベルリンは《壁》に沿って高速道路の建設を計画していた。1988年3月31日、東西ドイツの間で土地交換に関する合意が成立。西ドイツが七六〇〇万マルク、現在の日本円でいうところの約五十三億円を支払い、東ドイツは7月1日を期日として領土の移譲を行うこととなった。
これに反応したのは西ベルリンの左翼たちである。自然保護主義者、パンクス、自治主義者などが猛然と抗議をはじめた。引き渡しの日まで西ベルリン警察は簡単に手出しすることができない。テントや即席の小屋が建てられはじめ三角地を占拠していった。それはしだいに小さな集落となる。催涙弾が打ち込まれようとも、彼らは決して三角地を離れることなく徹底した態度を貫きつづけた。
そして1988年7月1日、引き渡し執行の日の早朝。ついに西ベルリン警察はこの地域の掃討にとりかかる。千人近くの兵士と放水砲による大規模な作戦であった。これには占拠者たちも真正面から抵抗することは叶わない。そのかわり二百人近くの者たちが壁をよじ登り「東へ」逃げ込んだ。通常とは真逆の逃走劇である。この出来事は共産主義国家への最初の脱出として大々的に報じられ、東ドイツは彼らを歓待した。国境警備兵は占拠者たちの救助活動を行ったうえ、食堂で朝食までふるまい、さらには彼らが再び西ベルリンへと帰ることをこころよく許したのである★3。
現代の再開発
2022年の1/2000配置図、赤く色づけされているところには、現在でも当時の《壁》の一部が残されている。1989年に《壁》が崩壊すると、高速道路建設計画を追い越すように東西は統一された。それにともないレネー三角地は再開発区画の一部となった。ドイツ政府はポツダム広場に隣接するエリアを対象に、ベルリンの東部と西部をつなぐ都心計画として、都市開発コンペティションを開催したのである。
一等にはヒルマー&サトラーの案★4が選ばれ、そのマスタープランは高層ビルの集積とオープンスペースを層状に配置する計画であった。区画は複数の投資家に購入され、それぞれのエリアでマスタープランに従ったプロジェクトが華々しく展開した。主要な投資家はダイムラーベンツ、ソニー、ABBである。再開発プロジェクトは1994年に実施段階に入り、2004年にひとまずの完了をむかえる。現在ではリッツ・カールトンやマリオットホテルといった高級ホテル、大手IT企業のオフィスが立ちならぶ一大商業区域だ。
1/80平面図、その右側の2022年に描かれている高層ビルの平面★5は、ハンス・コルホフの設計によるものだ。コルホフはベルリンに事務所を構える1946年生まれの建築家である。コルホフはこのデルブリュック銀行のビルの他に、ダイムラーベンツが所有する区画でもコルホフタワーと呼ばれる高層ビルを設計している。ちなみに、その区画のマスタープランは建築家レンゾ・ピアノによるものだ。
二つのビルはともに花崗岩を貼りつけたモダンなファサードで、内装には上質なチーク材やテラゾタイルがつかわれている。柱が前面に強調された下階のファサード、細かな長方形の窓がしきつめられた中層、段々に構成された頂上のボリュームはビルの細さを強調し、洗練されたデザインとして大企業の栄華を見事に表しているといえる。しかし細長い足で立ちながらてっぺんの崩れ落ちたビルに、がらがらと瓦礫がなだれるような不安を感じてしまうのもまた事実である。
あるいは自転車か
《壁》によって生まれた無法地帯。そこは人間がいなくなることで植物たちのビオトープとなった。すると予期せず生まれた都市の貴重な緑地をめぐり、インフラを整備しようとする行政の力と豊かな緑を守ろうとする民衆のエネルギーが奔流する。しかしベルリンの壁が崩壊し、三角地はあっさりと巨大資本に解放された。《壁》が乱れたことでレネー三角地という環境はかたちづくられ、東と西、政府と民衆、植物と人間、国家と資本、複数の主体が入り混じり、その様相は絶えず動きつづけたのだ。
はじめの平面図はレネー三角地という時間の積層をスライスした断面図でもある。そこから読み取れるものはなんだろう。植物とバラック小屋の広がる無秩序な風景と、近代的なビルの几帳面な佇まいだろうか。あるいは好き勝手に散乱する自転車と、駐輪場に押し込められたバイクだろうか。
2022.06.06
註
★1—壁と東西境界線の位置関係については、ベルリン公式ウェブサイトに記載のベルリンノカベ概要図を参照した。
★2—類型e-10はシュタインシュテッケン(独:Steinstückens)と呼ばれる西ドイツの飛び地である。《壁》が建設されると、飛び地への物資の供給はヘリコプターで行われるなどしていたが、東西の協議を経て本土との連絡通路が開設。その通路は両側を高い壁に囲われた一種のワープ空間だった。詳しくは、2011年7月にベルリン工科大学に提出された学位論文をもとにつくられたウェブサイト、Steinstücken und seine Maue—Geschichte und Ende einer Exklave zur Zeit des geteilten Berlins(邦訳:シュタインシュテッケンとその壁—ベルリン分断期における飛び地の歴史と末路)を参照。
★3—デモについては、当時の左翼運動などの貴重な写真がアーカイブ・公開されている非営利団体Umbruch-Bildarchivのウェブサイトを参照した。また、デモの様子はYoutubeに投稿されているDer Kampf um das Lennedreieck(邦訳:レネー三角地の攻防)で見ることができる。
★4—コンペ案の概要はヒルマー&サトラーのウェブサイトを参照。
★5—ハンス・コルホフの作品集(Hans Kollhoff, Hans Kollhoff en Helga Timmermann. Projecten voor Berlijn, Antwerpen:DeSingel, 1994)に記載されている図面を参照した。概要はコルホフ建築事務所のウェブサイトでも確認できる。
ライター
塚本貴文・山﨑晃
ドラフトマン
川島隆・塚本貴文・山﨑晃